向かい風の向こう側

忘れないように 誰かの心にずっと住めるように 一生懸命あがいてやろうと思います

私は、ファンじゃなくてオーディエンスの立場でいたいのかもしれない。

「ファンダムエコノミー入門」

(黒鳥社発行/プレジデント社発売)

まだ半分位しか読めてないんだけど

物凄く面白いです。

 

 

 

 

小学校1年の時、いちご新聞にハマり

サンリオ本社見学会だの

キャラクターサイン会だの

今はなきいちごのお家での

ありとあらゆるイベントに

齢6歳とか7歳にして1人でいそいそと

参加していた類の人間なので

昔から「誰かや何かにハマる

という行為そのもの」がすごく

好きな自覚はあるけれど、実は

「対象にハマっている」感覚は

薄かったりして。

(とはいえ、何かや誰かにハマる経験が

ほとんどない方達からしたら、十分

対象にハマっているんですけどね。

でも、この感じ、わかってくれる方

いるかな・・・。)

 

 

でも、南カリフォルニア大学の

ヘンリージェンキンズ教授によると

ファンダムエコノミーでのファンの

行動は企業に収益をもたらすことに

繋がってはいるけれど、背後にある

ファンの欲望は単なる消費欲ではなく

欲望の対象は、対象へのアクセスだと。

対象に興味のない人はファンとは

いえません。だと!!

・・・うん。まあ確かにわかる。

対象自体に興味がなかったら

ファンではないよね。と思いつつ

「対象自体への興味ってなんぞや?」

というのもありまして。

 

 

K-POPのファンダムは、参加型の側面が

強いこと、そしてそういった文化で

大きくなって成り立っている世界だと

いうことは、足掛け2年半ちょっとの

短いケーポ歴でも何となく理解はしてて。

例えばこのブログだって、ただ単に

消費欲だけじゃ収まらず、より

対象(おにゅだったりカイだったり

SMドルだったりスンジュンだったり

おねのぷだったり)にアクセスしたい

という個人的欲望の発露のカタチだと

思ってるんですよね。

私の場合、このブログを通して

アイドルに近づきたいとか接点を

持ちたいとか読んでほしい等々は

微塵も思っていないけど、なんと

いうか、個人的にコミュニケーションを

とりたいということではなく、

自分の思いをここに書き留めるという

行為は、私なりに彼らによりアクセス

するための手段だなとは思って

いるんです。だから、ひねくれ者で

不器用な私なりに、ブログを書くことで

ファンダムに参加できてる感を

味わっている所もあったりして。

 

でも、本の中で

 

K-POPにおいて「ファン」は受け取る

だけの静的な「消費者」ではなく

身銭を切って推しの広報をし

グッズや動画や字幕をつくったりする

「行動」を起こす人達と考えられて

いる。

 

K-POPはファンの「リテラシー」の

開発ではなく「コンピテンシー」の

開発をビジネスの中心に置いている

 

って読んだ時、とてつもない

アレルギー(拒否)反応が瞬時に

沸き起こってきて💦

 

「え、何?それってKポに利用されてる

だけじゃん!ってか仕事?え?

無給で仕事しないとファンじゃないの?

生産性の提供はそれに見合う

金銭的見返りという意味でのテイクが

ないと私はやってられない!」

と思っちゃったんですよねぇ。

あ~なんてケチな考え方なんだろ…。

 

だけど同時に、

「でもな、、私の場合だからといって

単に消費者としてオタクやってるだけ

だと罪悪感に苛まれていたたまれない

気持ちになるんだよな…。とはいえ

オタクの生産的行動って社会的に

評価されるわけでもなく、むしろ

そういうオタクのことをウ〇いとすら

思う時もある。発露した欲を押し付け

られるのは鬱陶しいし、選びたい。

うーん・・・」と思って。

私みたいな権威主義的なオタクは

これからどんどん絶滅危惧種に

なっていくんだろうなと思ったし

もっというとオタクとしてでなく

社会的に受け入れられなくなって

いく感も既にすごくあるんですよね。

(大げさな方向に思考が飛躍www)

 

 

私は昔から「女子の集団」が物凄く

苦手なんですが、それは「繋がる事が

できる人間の強さ(時に不遜なまでの)」の

怖さと力を、10年間の女子校生活で

嫌というほど思い知らされたからと

いうのがあって。某超有名Kポグルの

ファンダムが、〇LM運動の最中に

開催された♠の集会に嘘の参加予約を

入れて、デモ参加者を特定しようと

した警察の動きを阻止したっていう

ニュースを見た時、一介の

Kポファンダムが政治的介入まで

果たせることの威力と凄さに

感嘆したのと同時に、恐ろしさも

感じたし、正直、本質的じゃないと

いうか…いい気になるなよ的な思いが

あったのは否めなくて。

行動そのものは良心に基づくことで

あったり、結果オーライだったと

しても、連帯して大きな事を

やり遂げて権威や権力に打ち勝つと

いうのは単純な美談なんだろうか?

強くなった気になって我が物顔で

場を牛耳る輩を見かけると、権威や

権力を笠に着て我が物顔で振る舞う

人達と何が違うんだろう?同じじゃ

ない?と思ったり、私たち正しいこと

してるよね感が全身から発散されて

いるのを感じると、猛烈に鬱陶しく

感じたり。でも、正直この

鬱陶しさって、生きてる以上一生

色んな場で感じていくものなんだろう

なあと思うし、立場が変われば自分も

その鬱陶しい側になるんだよなーと

自覚はしてるけど、こうやって

政治的影響を与えたり経済的価値を

生み出すような流れの端の端の端に

いても、女子校時代のあの、

連帯から生まれる独特の力と怖さが

重なって、ファンダムエコノミー

なんて言われてるけど、すごく

危ない流れでもあると思うんだよな。

でも今それが社会を牛耳れる力を

どんどん身につけて肥大化して

社会的にも注目せざるを得ない

状況になってきてるってことが

面白い反面、怖い。

 

 

そんな流れに居心地の悪さを

感じているオタク(私)が、

おぉっ!て膝を打ったのが、

東京都市大の岡部教授が話されて

いる、

「学びの場としてのファンダム」

「学び観の転換」

の部分。これを読んで、私は

この数年、オタクとしての

居心地の悪さが何故年々増して

いるのか?の解をもらえた感が

あって。ケーポのファンダムに

限らない話だとは思うんだけど、

多分ケーポのファンダムに

より通ずる話なんだろうなと。

 

岡部教授は

ファンは1日にしてならず。

ハードな活動の先にようやく現れて

くるのがファン。そのハードな活動へと

突き動かしているものには3つの学びが

あるとお話されていて、それは

1.自律的な学び

2.円環的な学び

3.共愉的な学び

だと。

 

現代の学びは有用性を求め右肩上がりの

成長を志向する直線的なもの。

対してファンの学びは、産業主義的な

価値観を手放して、明確な意味を

持たない「無用の用」に熱中することで

得られる。大きな変化を感じられなくても

円環的な時間を楽しむ。はじめにゴールが

なく何の役に立つかわからないことでも

やってみることでゴールが生まれてくる。

将来性や生産性とは一線を画す学びは

効率は悪くてもクリエイティビティに

富んでいる。

推しグッズの二次創作により日常に

彩りや陰影を与える。目の前の自身の

生活を大事にし、豊かにアレンジする。

資本の奪い合いではない「学び」に

向けた価値転換がここにある。

(ファンダムエコノミー P.92より一部抜粋)

 

私が、あ、こりゃ私居心地悪いわ、

そりゃそうだと思ったのがまず

 

ファンの学びは、産業主義的な

価値観を手放して、明確な意味を

持たない「無用の用」に熱中することで

得られる。

 

の所。私は確かに、有用性と右肩上がりの

成長曲線がわかりやすく望めそうに

ないことを<学び>と捉える視点は

持ち合わせてないし、なんなら

アレルギー反応すら起きる。加えて

「何の役に立つかわからないことでも

とりあえずやってみる」ってことが

仕事でもめちゃくちゃ苦手。。

それを<今>やる意味を明確にして

腑に落とさないと動きたくないし

時間の無駄とすら思ってしまうことも

ある。円環的な時間を楽しめない。

目の前の自身の生活を大切にする

ってことに罪悪感を抱きがちで

まずは外向きにやるべきことを

しっかりやって何らかの成果を

出してから生活を楽しむのが筋、と

すら思う時もある。読めば読むほど

これを<学び>と捉えられない

人間がペン活に突き動かされるわけ

ないなと思わされる。

(突き動かされないというわけじゃ

ないんだけど、罪悪感と常にセットなのです)

 

 

そしてもう1つ。

 

ギブ/ゲットし合うことで知識や技術は

伝播されネットワークにおける活動に

蓄積される。また自ら作った作品や

グッズを交換することで、ネットワークを

広げたり目の前の光景を少し豊かに

し合ったり自分の中だけで閉じるのでは

なく他者へと広がる学びがある。

 

この、ギブ/ゲットの伝播はわかるんです。

グッズの交換だけじゃなくて、例えば

いわゆるソンムルとかも人と繋がる

手段だと思うし、豊かにし合うという

感覚も理解はできる。ただ、この

自分の中だけで閉じずに他者と広がる

ってことが学びなんだっていう視点は

これまた大変持ちにくくて、

なるほどなあと。

 

で、私が思ったのが、無用の用に熱中

したり、何の役に立つかわからないこと

でもやってみたり、ソンムル手作り

したり、広告出したり翻訳したりって

いうこういう<活動>って楽しいかも

しれないけどすごくハードだと

思うんですよね。時間とお金が

かかったり。ギブ/ゲットのバランス

とれなくなって苦しんだりしてる方も

よくお見かけするし。でも

「ハードな活動の先にようやく現れて

くるのがファン」っておっしゃって

いるんですよ。

 

・・・いや私これ一生

ファンになれないやつじゃん、と 笑

「どんなに大変でも苦しくても

ありがとうって言ってくれたら

苦労が吹き飛んで幸せになれる。

また頑張ろうって思える。」

ような人じゃないと、ファンに

なれないんじゃ?と。極端な話。

 

まあ現実そこまでいかなくても

要するに「対象やファンダムに

コミット」しないとファンとは

言えないってことだと思ったん

ですよね。そこでふっと思ったのが

 

あ、そっか。私はオーディエンスで

いるってスタンスをとりたいんだな。

 

と。前に言われたことがあるんです。

「そうやって何でもちょっと

外側から客観視する感じがズルいと

思う。自分の立ち位置を表明しない

感じで。」って。その人はとても

熱心にオタ活をしている人だった

けど、彼女こそ確かにファンだなと。

でも私は、何で娯楽に対して

コミットしないといけないんだ?

と思ったんですよねその時。

ただでさえ仕事で疲れているのに

何でここでもコミットしないと

いけないのかと。しかもファンの

立場でそうやってなんかなんでもに

首つっこもうとする(参加しようとする)

スタッフ目線、正直苦手・・・とも

思った。でも、K-POPのファンダムは

参加型の側面が強いこと、そして

そういった文化で大きくなって

成り立っている世界なんだって体感すると

すごく腑に落ちたんですよね。

そうか、私は参加したくないわけじゃ

ないけれど、どちらかというと

オーディエンスとしての立場で

いたい気持ちが強いんだと。

もしかして、このままじゃオタクと

しては人権ないかもしれないけど

でも何故ここ数年でどんどん居心地が

悪くなってきたのか?の解を少し

与えてもらったような気がします。

ファンダム文化の変遷についていけて

ないんだと。(もちろん、それだけじゃなくて

私の性格によるものも多分にあるけども)

 

岡部教授は

 

興味からスタートしてただひたすらに

愉しむことは社会のそこかしこに在る

学びの機会とつながり、画一化した

学習の概念を拡張させる。ファンダムに

おいては学びと愉しみは同義である。

 

ともおっしゃってるんですよ。

なるほどなあと。個人的興味をただ

ひたすらに追求して愉しむことも

学びなのか・・・。多分、オタ活を

楽しめてる人達や、つながりを

自然に求めて共有し合うことを

素直に求められる人達からしたら

「だよね!」って感じなんだろうか。。

どういうことか、頭では理解できるの

だけど、身体(心)が拒絶している

感が否めない 笑

 

 

と、かなりの雑記的感想だし、途中

超個人的主観・所感を織り交ぜて

しまったけど、今まだこの岡部教授の

章までしか読めてなくて、でも

あまりに面白くて個人的発見が

大きかったので、書き留めて

おきたくて、稚拙ながら記録して

みました📝また続きを読み終えたら

追記したいと思います。